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【R5葛高226・orange】オレンジ色の風に乗せて(如月)~ 風の中に ~

 北側の出窓に置いてある地球儀に、レースのカーテンをやっと通過した宵闇前の弱々しい日の光が当たっていた。夏以来、そのままにしておいたもんだから、「忘れるなよ。」と言わんばかりに、存在感を滲み出そうとしていたのかも知れない。山岳部分を触ると隆起加工され、海洋部分は薄茶色のアンティーク調に仕上げられた少しばかり小ぶりのものだ。

 久しぶりに手に取り、ホコリを軽く吹いたぐらいにして、左手に支柱台を乗せ、目の高さまで持ち上げた。何も考えずに、地球の自転さながら、ただただゆっくりと回し、しばらくの間、眺めていた。冬の夕暮れは早い。気づくと、辺りが少し暗くなった。アジアとヨーロッパの境界とされている「ウラル山脈~ウラル川~カスピ海~カフカス山脈~黒海~ボスポラス海峡~ダーダネルス海峡」をせっかくだから地球儀で確認してみようと、まだ届く幽かな光を頼りにしようと窓際まで近寄った。偶然にも、夕日でオレンジ色に染まった航空機が、北へ飛んで行くのが見えた。いつもは、飛行機が飛んでいようがいまいが特に気にしないのだが、地球儀を眺めていたせいか、(国際線にしてはあの方向はないだろう、とすると北海道行きか。千歳、旭川・・・?)などと到着地を夢想しながら、35年以上前に、空から見た白いシベリア平原を思い出していた。

 針葉樹の樹林帯も見えたが、雪と氷の平原はまるで磨かれてまぶしかった鏡のように、日の光を受けキラキラ眩しかった。「シベリア鉄道」が見えるか?と思ったが、鉄道は都市や街など人びとが多く暮らすところを繋ぐのだから、北緯70度近いところを飛んでいる時点で、北緯52~57度に位置するシベリア鉄道を見ることはできないのだ。

 機体のゴーっという風切音に混じって、岩手県出身のシンガーソングライター大瀧詠一が作曲した『さらばシベリア鉄道』がどこからか聞こえたような気がした。アジアからヨーロッパまで、いつの日かシベリア鉄道に乗ってみたいと今も思う。

 シベリア鉄道のように複数の国を走る国際列車は、ヨーロッパに多いのだが、それ以外にもアジア、アフリカなどでも営業されているのだ。(日本は島国だから国際列車はあり得ないだろう)と高をくくったように思っていたことが恥ずかしいのだが、戦前に『欧亜国際連絡列車』があったのだというから驚きだ。東京からヨーロッパ各地に列車で行くことができた時代があったのだ。歌人、与謝野晶子も夫を追って乗車したらしい。もっとも、日本の鉄路と大陸の鉄路を結ぶため、船舶が利用されたのは言うまでもない。

 ウィキペディア(ボート・トレインの項)では、「その創始は、1912(明治45)年に福井県の敦賀からロシアのウラジオストクまでの航路に接続する形で、航路の運航日に限る東京駅-金ヶ崎駅(後の敦賀港駅)間の運航の開始とされる。」とある。時代が進み、路線が整備されるなど変動はあったようだが、シベリア鉄道を経由してその先は接続する路線でヨーロッパ各地へ行くことができた。ナチスによる迫害を受けたユダヤ人に、杉原千畝が命のビザを発給したのだが、欧亜国際連絡列車で日本を経由し、他国へ渡った人も多かったという。そんなドラマに満ちた欧亜国際連絡列車を知れば知るほど、当時、乗車してヨーロッパに向かった人々が見た風景を見てみたい。停車駅でドアが開くと吹いてくる風や街のにおい、夜のとばりで輝くネオンサインや街灯など、現地に行かなければ味わうことのできない体験をしたい。飛行機ならあっという間に過ぎ去るところを、じっくり、ゆっくり味わうのだ。その街の風に吹かれながら。

 ノーベル文学賞を受賞したアメリカのミュージシャン、ボブ・ディランが1963年に発表した「風に吹かれて(Blowin’in the Wind)」の一節を急に思い出した。

 「・・・なあ、友達よ。答えは風に吹かれている。答えは風に吹かれている。」と。

 これまで出せなかった答えを、もう吹き始めた新しいオレンジ色の風から見つけようと思う。
見つかるといいのだが。

書き人知らず


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