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【R5葛高006・orange】オレンジ色の風に乗せて(卯月)

 とある人物から「思ったことを書いてほしい。」と言われ、「何を?」と聞き返すと、「説教くさくてありがたい話ではなく、日頃、考えていること何でもいいので。」と言うものだから、「いいよ。」と軽い気持ちで返事をしたことに、少し後悔している。

 なぜなら、日頃、自然界や物事を注意深く観察し、何か目的を持って調べている筈はなく、毎日、単純な思考に基づいた単純な生き方しかしていないからだ。しかしその人物は、「新しい風を発信したい。面白いことをしたい。学校をよくしたい。」と熱く語り、その心に揺り動かされたのは確かである。協力しない訳はどこにも見つからない。

 そこで、世の中に関し、気になったことを経糸(たていと)に、『ここ(葛高)にしかない出会いと学びを』緯糸(よこいと)に準え、布のように織り成した文章を書くこととした。日々、高原地帯を駆け抜ける爽やかな風がオレンジ色の校旗をはためかすように、オレンジ色の風に想いを乗せて・・・。


~桜に寄せて~

 古来より人々に親しまれ、本格的な春の訪れを感じさせる花に桜がある。俳句の季語であり、多くの歌人が題材とした。桜は日本の二つの国花の一つであり、もう一つは菊だ。例年になく、今年の桜の開花は、観測史上最速との報道が全国各地から届き、盛岡市でも4月7日に満開となるなど、やはり最も早い開花となった。

 桜を詠んだ歌は数多くあるなかで、平安時代後期の歌人西行法師の次の歌は有名だ。(※「やまとうた」だが漢字・濁点を使用)

願はくは 花の下にて 春しなむ その如月の 望月のころ

(山家集)

 歌中の花は桜のことであるが、全訳は省略する。西行は俗名を佐藤 義清(さとう のりきよ)といい。歌に優れた武士でだったが、後に出家。出家後は京都各所の草庵で暮らしていたが、30歳頃に東北地方に旅に出た。旅から戻った後、高野山に入った。源平合戦の最中、文治元(1181)年の南都焼き討ちにより、東大寺大仏殿が消失した。東大寺再建を進める僧侶から、奥州藤原氏に勧進(寺社や仏像の建立のために寄付を募ること)を依頼するよう頼まれたため、西行は再び奥州へ旅立った。

 この時、69歳。当時としてはかなり高齢であったが、西行法師は体力に恵まれた健康な体だったと伝わっている。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』によると、この旅の途中、鎌倉で源頼朝と会い、歌道や武道の話をしたという。

 果たして、文治2(1186)西行は再び平泉を訪れたのだが、中尊寺対岸にある束稲山の桜の美しさに感動し、奈良の吉野山以外に、これほどきれいな桜の山があることに気づかされて詠んだ歌。

聞きもせず 束稲山の桜花 吉野のほかに かかるべしとは

(山家集)
公舎近くの桜(令和5年4月19日撮影)

 同年、源義経が平泉に到着したが、その後、文治5(1189)年に平泉は頼朝により滅ぼされた。西行法師と奥州藤原氏、東大寺大仏殿と平泉の金など、関西への修学旅行の見学地には、本県と繋がりの深い場所がある。

 因みに、江戸時代、俳句を芸術の域に高めた松尾芭蕉も西行法師に憧れ、平泉にも立ち寄ったことは有名だ。その芭蕉も、桜を詠んだ句も数多く残した。それだけ春の訪れを、うきうきする気持ちを呼び起こさせる桜は、古より、私たちの生活に染みわたっている。

 そう言えば、平安時代の歌人在原業平は花見の際に次のように詠んだ。

世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし

(古今和歌集)

 桜の花の香りが風に乗って届き始めた。
 桜の咲くころに思うこと。

書き人知らず

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